哲学ノート 三木清 レトリックの精神 P121 今日、文学における新しい精神というものを求めるなら、それはあの、特に若い世代によっていわれている人間性の探究という標語のうちに見出されるであろう。人間性の問題は最初プロレタリア文学に対する批評として現れ、プロレタリア文学の発展と停頓とともに漸次普及した。そのために人間性の探究の要求は一見プロレタリア文学と全く対照的な立場に立つものであるかのように見えた。事実それはプロレタリア文学における社会的な見方並びにイデオロギー的方法の人間性に対する重圧に向かって抗議的に投げ掛けられた言葉であった。そこで人間性の探究の問題はこれをテーマ的に展開しようとするや否や、必然的にプロレタリア文学を通じて持ち出された二つの重要な問題に、すなわち一方では社会性の問題、他方ではイデオロギー性の問題に面接せざるをえない。かようにしてまず第一に、今日人間性の探究について語る者は人間性と社会性との関係を問題にすることが普通のようである。この問題はたしかに重要な、そして根本的な問題である。しかし私はここに第二の、同様に根本的で重要な問題、すなわち文学における人間性の探究とイデオロギーとの関係の問題に注意したいと思う。もちろん、二つの問題は、相互に関係しているのである。 P122 文学におけるイデオロギーの問題というと、さしあたり文学と思想の問題というように考えられる。思想は文学にとって外的なもの、外部から付け加わってくるものと考えられるであろう。思想は客観的なもの、一般的なものとみられるであろう。イデオロギーをもって書くということは、過去のプロレタリア文学の多くにおいてはマルクス主義理論の適用ということになり、あの公式主義的類型的文学の傾向を生じ、文学は創作でなく論文や解説もしくはその代用物に堕とし去ったという批評を行わせた。かような文学が人間性の無視、喪失、虐殺に終わったのはいうまでもないことである。それでは、与えられた思想によって書くのでなしに、作家がみづから思考して書くとしたらいかがであろうか。事態は確かに改善されうるようにみえる。しかしながら、思考するということはある客観的なもの、一般的な理論に到達するためではないか。思想はかような客観的なもの、一般的なものとして、思考するという主観的作用の結果、その生産物に他ならなない。したがって思想によって書くということは、思考して書くということの簡約化、経済化に過ぎないとも見ることができる。いづれにしても思考するということが客観的なもの、一般的なものを思考することである限り、文学における人間性の問題とイデオロギー性の問題とは相いれない二つの事柄でなければならぬように思われる。なぜなら人間性を問題にするということは具体的なもの、性格的なもの、個性的なもの、主観的なものを問題にすることであるからである。 P123 しかし他方、文学から思考を除外し排斥するということは無意味であるのみでなく不可能でもあろう。文学とは言語の芸術である。そしてロゴスというギリシア語が言語を意味すると共に思考を意味する如く、言語と思考はどこまでもひとつのものと考えられる。文学は思想の芸術とも言われている。偉大な文学はつねに偉大な思想を含む。プロレタリア文学にしても単にイデオロギー的であるという理由で芸術的に価値が低いとは言われないであろう。かくて文学における思想ないし思考の問題は根本的な点において困難に出会うかのように見える。もし人間性の思考といいうようなものがあり得ないとすれば、人間性の探究ということも無意味な言葉になり終わりはしないであろうか。  ここにおいて我々は思考の両重性に注意しなければならない。この両重性を現すために、我々は論理学(ロジック)的思考と修辞学(レトリック)的思考という語を術語的に導入しようと思う。普通に思考というと論理学的思考のことが考えられている。論理学は思考の学であり、その法則を研究する。この場合思考は客観的思考であり、一般的なもの、したがってまた抽象的なものの思考である。かような論理学に対してレトリックというものがある。レトリックは言語に関する学であるが、言語と思考とが一つの物あるいは不可分のものである限り、レトリックもまた思考の学の一種とみられてよいはずである。我々は実にそのように考える。レトリックはその本質において単なる雄弁術ないしいわゆる修辞学でなく、言語文章の上の単なる装飾、美化の術ではない。近代の哲学はレトリックの問題をほとんど全く無視もしくは忘却しているが、これはその抽象性と P124 貧困化とを語るものである。哲学は自己の本質を失わないためにここでも自己の端緒、すなわちギリシア哲学に帰らなければならない。ギリシア哲学においては論理学よりもレトリックがむしろ先位を占めていた。この事実は哲学が生の現実、民族の社会的生活と現実的連関にあったことを示している。その「オルガノン」によって論理学の父と呼ばれるアリストテレスは、これと並んで「アルス・レトリカ」という極めて重要な著作を遺している。ただこの著作の有する意義は今日なお遺憾ながら一般には十分に理解されていない。レトリック的思考はロジック的思考に対していかに区別することができるであろうか。今当面の問題に関係する限りその点を明らかにしよう。  誰かを相手にして話すとき、我々はつねにあるレトリックを用いている。そしてそのとき全く無意味に話ししているのではない限り、我々は思考しつつ話しているのである。したがって我々の用いるレトリックは我々の思考の仕方を現しているはずである。もしいかなるレトリックにもよらないで話すとすれば、我々は他人を十分に理解させることができないであろう。レトリックは特殊な思考の仕方であり、相手を説得することに、その信(ピスティス)を得ることに関係している。かようなものとしてレトリックも特殊な証明を含まなければならぬ。レトリックにはレトリックの固有の論理がある。レトリック的な証明はエンテュメーマと称せられる。それは論理学的な証明すなわちジュロギスモスとは性質の異なるものであるが、一種の論証であって、アリストテレスによるとレトリック的なジュロギスモス(推論)と看過されうるものである。 P125 ただ論理学的な証明がロゴスのうちにあるのに反して、レトリック的な証明はかえってパトスのうちにある。レトリック的に話す、したがってレトリック的に思考する場合、我々は相手がいかなる状態にあるか、彼の感情とか気分を考慮に入れ、思考の仕方はそれによって規定されている。言い換えるとレトリック的に思考するとき、われわれは相手のロゴス(理性)よりも彼のパトスに、もしくは彼自身のレトリック的思考に訴え、それにふさわしい言語的表現すなわちレトリックを用いるのである。聞き手においてパトスが言葉によって動かされるとき、聞き手自身が証明の道具になる。しかしさらに重要なことは、かようなレトリック的思考はつねに話し手自身のパトスに結び付き、これによって規定されている。これは各人のエートス(性格)にしたがってそれぞれ異なるところの性格的な思考である。性格は根本においてパトス的なものである。レトリック的な思考はその証明を話し手のエートスのうちに有するようなものである。それは各個人において異なるばかりでなく、各々の国民、各々の社会、各々の世代のいて異なっている。すでにしばしば述べた如く、我々がパトスとか主体とかいう場合、決して単に個人的なものを示すのではない。例えばひとはドイツ哲学とフランス哲学とは考え方が違うなどという。このときもし考え方というものが、論理学的思考方法の意味であるとすれば、両者の間に差異のあるべき理由はないであろう。論理学的思考は普遍妥当性を有し、各国民各個人等において相違すべきではないからである。それぞれに相違し特殊性を有するのはレトリック的思考、主体的にパトス的に規定された思考でなければならない。 P126 同じように、もし我々がフランス文学の精神とドイツ文学の精神とは異なるというならば、その差異は主として両者におけるレトリック的思考の相違にもとづくであろう。フンボルトは各々の言語は個性を有し、その国民の到達した世界観の産物であるといっている。言語は単に論理的なものではない。それは、世界観も同じく、パトス的なものの表現の方面を有している。  レトリック的思考は主体的に規定された思考であり、その根底にはパトスがある。それとの区別において、ロジック的思考は対象的に限定された思考とみられることができる。後者の内容が一般的なものであるとすれば、前者は個別的なものに関わるといわれるであろう。論理学的思考は真理性Wahrbeitに関わるに対して、レトリック的思考の関わるのはむしろ真実性Wabrhaftigkeitである。これは客観的論理的に見ると蓋然的な価値のものでしかないであろうが、論理的なものよりもさらに深い意味において真理であるるということができる。レトリック的思考も思考としてロゴス的なものであるとすれば、このときロゴスはまさに聴くものであって、語るのはかえってパトスであるともいえるであろう。諸々のパトスは、あるいはささやくもの、あるいは話すもの、あるいは叫ぶものである。パトスは声なき声である。それは見られるものというよりも聴かれるものである。思考は根源的には見ることがでなくて聴くことである。そこに思考にとっての根本的なある受動性が存在する。近代の哲学は思考作用をあまりに一面的に能動的なものと考え、そのために抽象的な主観主義に陥らねばならなかった。根源的に能動的なものはむしろパトスであり、 P127 ロゴスはパトスの囁きや話し声や叫びに応じて語るものである。悟性の活動を動かすのは感情である。もとより我々は思考の能動的方面にも注意することを怠るべきではない。思考の本性は受動的能動性にある。パトスは本来語るものですらなく、自然のごとく沈黙せるものといえる。声なき声を聴くという意味ですでにロゴスはある能動的なものである。しかし思考の能動性はアランがいった浄化作用というようなところに認められるであろう。アランは悟性の役割は感情とか感動とかいうものの浄化作用にあると述べている。思考との接触によりその浄化作用を通じてパトスは見られるものとなり、ある具象性を得てくる。思考の自然進行はつねに感情からイデーへ行く、とアランはいっている。イデーは見られたものである。いな、イデーは見られたものであるとともに、見るものである。なぜなら、このようなイデーはその根源において能動的なパトスに起因し、絶えずこれによって担われているのであるから。このイデーが芸術家の物を見る「眼」に他ならないであろう。  もしこのイデーを思想と呼ぶならば、文学における思想というのは根本においてかくのごときものを意味するであろう。かくのごとき思想は文学にとって外部からつけ加わってくるものでなく、かえってそれなしには創作活動もあり得ないようなものである。それは客観的世界の概括ないし説明としての理論のごときものでなく、かえってその根底には深いパトスを蔵している。そのような思想は公式的なもの、一般的なものでなくて、性格的なものである。 P128 作品に含まれる思想はただその作家とパトスを共にすることによってのみ真に理解されることができる。かくのごとくパトスを共にする(シュムパティア)ところの、この意味での同情あるいは共感にもとづく思考である点に、レトリック的思考のひとつの重要な性質がある。直感と呼ばれるものはこの意味における同情的思考であろう。ベルグソンも同情と直感とを一つの物に考えている。思考は純粋になればなるほど孤独になるのでなく、むしろ同情的になる。同情というのは単に対象と一つになるということでなく、もと人と人との関係である。パトスの対象となるのは何よりも人間である。レトリック的思考の根底には常に人と人との関係がある。それは理論的であるよりも倫理的である。レトリック的思考のは我と物との関係ではなく我と汝との関係において成立し、かかるものとして本来最も具体的な意味においてディアレクティッシュ(弁証法)なものである。  私はイデーは見られたものであると共に見るものであるといった。したがっていまの場合思想は思想であると共に思考である。これは思想が生命的なものであることを意味する。このような思想はすべて自らスタイルを備えている。いな、思考のはたらきなしにはスタイルはありえない。しかしこの思考の根底にはパトスがあるのであり、したがってまたスタイルはパトスのうちにあるのである。フロベールは書いている。「スタイルは言葉”の下”にあると同様に言葉”の内”にある。それは作品の魂であると同様に肉である。」言葉の下にあるもの、作品の肉であるものはパトスに他ならないであろう。しかしこのものはスタイルの価値のものであるが、なおスタイルではない。 P129 スタイルは作家の思考である。それは作家がものを見る「眼」である。スタイルは装飾のことでもなければ、単にテクニックの問題でもない。ひとはレトリックによってスタイルが作られるというように考えている。まことにその通りであろうけれども、そのときレトリックは人の考える如く単なる修辞学、文章の美化の術のことではありえない。スタイルを作るのは我々のいうレトリック的思考でなければならぬ。  かようにして人間性の探究とレトリック的思考との結合はもはや明瞭である。我々の日常の言語においてさえ我々の用いるレトリックは相手の人間性、彼の性格、気質、感情、気分等の理解と結びついている。人間性の理解なしに用いられるレトリックは無駄であり、無意味である。レトリック的思考は人間学的思考であるということができるであろう。人間性の探究は、かかる探究者すなわちモラリストと呼ばれる者を定義しつつヴィネェが述べたごとく、人間性をドクトリン化することでなく、人間性についてのイデーを与えることである。人間性をドクトリン化することは心理学、生物学、社会学など、種々の客観的科学に属している。人間性についてのイデー、上に言った意味での思想を与えるのは文学が第一であろう。この場合人間性の探究における思考は概念的理論的思考ではなくレトリック的思考である。論理学的思考が客観的なものの思考であるのに対して、レトリック的思考は主体的なものの思考である。このような思考はある直感的なものであり、芸術家の根本能力とされる想像力あるいは構想力はこのような思考を離れてないであろう。 P130 人間性の探究においては、科学の二本の松葉杖といわれる観察と帰納の方法もこのような想像力の生命的な力に生かされるのではないと前進することができない。ひとはしばしば人間性の探究はモンテエニュなどの場合のように懐疑によると述べている。ところでこの懐疑の固有の立場はロジック的思考の立場ではない。論理主義の哲学者は懐疑論は自己矛盾に陥り、論理的に不可能であると論じている。懐疑の立場はレトリック的思考すなわち主体的に規定されたパトス的な思考にとってのみ真実性を有するのである。今日文学の再建が問題になっているとき要求されるのは、懐疑とか不安とかとは反対に、意欲の確立であるといわれるであろう。意欲はいかにして確立されうるか。思考することなしには不可能である。しかしそれは作家が一定のドクトリンを確立することではなく、まさに意欲を確立することであり、彼の思考がパトスからイデーへ行くこと、作家の眼が、思考のスタイルが確立されることである。意欲は燃焼するも、それを見ゆるまた物を見えしめる火とするのは思考のはたらきである。  アンドレ・ジイドはこう書いている。「文学において自己を恐れるとは何という馬鹿げたことであろう。自己を語ること、自己に関心をもつこと、自己を示すことを恐れるとは。(フロベールの苦難の行の必要は、彼にこの偽れる悲しむべき効果を考えださせたのである。)」レトリック的思考は、いかなる場合にも自己を語り、自己を示している。文学において自己を語るというのは、例えば私小説においてのように、単に自分に関することを描くことではない。 P131 文学の言葉においてはパトスはロゴスに向かって告白するのである。上にいったように、ロゴスはパトスの声を聴くことによって語る、そこに最も深い意味での告白がある。かような言葉が真に表現的である。ジイドは続けて書いている。「パスカルはモンテエニュに、己を語ると言って叱責した。そしてそれを滑稽な痒がりだとした。しかし彼みずから、自分の意に反して、そういうことをしたときほど、彼が偉大であったことはない。彼がこう書くとする。『キリストは人のために自分の血を流した』と。その彼の言葉は何らの効果をもたずして落ちる。だが、『私は』という言葉が入ってくるや否や、すべては生きてくる。そしてこの神が彼の許に来るならば、彼を君僕で呼ぶであろう。『僕は君のためにこんなに血を流した』と。この特別の血を、君のために、ブレーズ・パスカルよ…そうすれば、我々の誰でもが、この讃うべき君僕の言葉使いに、己が理解されていることを感ずるのである。」いったい自己を語るということは現実的な意味においては他の自己に対してのみ可能である。私が私を語りうるのは汝に対してのみである。物に対しては私は私を真に語ることができない。豊島与志雄氏は右の文章を引いた後、書いている。「この君僕の言葉遣いは、文学の上では直接には為されない。しかしながら、そういう言葉遣いがなされてるかどうかは、読者の胸に伝わるものである。そしてそれによって読者は、作者の意欲の性質を感ずるのである。これは文学の深奥な道である。しかし、感性に訴えるこの道は、理性に訴える論説や説教の道よりも、案外短距離である。」この君僕の言葉使いことレトリックの精神を示すものである。 P132 この精神によって作家は真に読者に呼びかけることができる。レトリック的に思考することによって作家は自己の意欲、自己の思想を読者に伝えることができる。そのとき作家は理性や論理に訴えるのではなく、パトスに、この感性的なものに訴えるのである。しかもレトリック的な思考はつねに我々の現実の生活のうちに含まれ、生きている具体的な思考にほかならない。もちろん、そのような君僕の言葉使いは文学の上で直接になされうるものではないであろうが、レトリックの精神は生かされなければならぬ。問題は単に修辞上のことではなく、思考方法のことであり、単に表現の仕方に関することでなく、文学の精神に関することである。  レトリックは元来社会的なものである。それはギリシアにおいて法廷、民衆議会、市場等、国民の社会生活の中から生まれた。アリストテレスによると、レトリックは弁証論の孫であると共に、倫理学の孫である、そして彼にとっては倫理学と政治学とは別のものではなかった。レトリックは単に会話の術でないにしても、決して独語ではないのである。レトリックは自分を相手に、社会に説得する方法であった。それは論理学によって論証し説得するのではなく、相手のパトスに訴え、相手の信(ピスティス)を得ることに努める。けれども思考なしには説得することはできないであろう。真の文学は固有の論理によって説得する。それは理論によってでなくレトリック的思考によって説得するのである。それが説得するという意味でいかなる文学にも宣伝的意義が含まれるということができる。文学が宣伝であるということは、文学に議論や説教を勧めることではなく、 P133 真にレトリック的に思考するように要求することである。パトス的な思考がレトリック的であるということは、パトスの根本的な社会性を現している。文学上の迫真性というものも、このような思考とその固有の論理の説得力を除いて考えられないであろう。ただ物を忠実に描くという単なる客観主義からは迫真力は生じて来ないのであって、そこにレトリック的思考がはたらかねばならぬ。レトリックは独語でなく、相手に向かっての思考であるところから、レトリックと一緒に考えられる種々の悪弊、たとば単に読者における心理的効果のみあてこんだり、またそのためにいたづらに装飾や美化を行うというようなことが起こりやすいであろう。しかしながらレトリック的思考の本性はそのようなところにあるのではない。この思考も思考として厳密を要求する。自己のパトスにおける真実、主観的真実性なしに真のレトリック的思考はありえない。思考の主観的真実性を求めるのがレトリックの精神である。文学の社会的機能を考えると同時に自己における主観的真実性を求めるということがレトリックの精神であろう。論理学的思考において厳密であることはむしろ容易であり、レトリック的思考において厳密であることは極めて困難である。孤独な思考は真実であり得ても、レトリック的思考には虚偽が混入しやすいものである。  現実的な言葉は、アリストテレスがいったように、話す人、それについて話される物、聴く人という三つの要素を含んでいる。これに応じてレトリック的証明も具体的には三つの要素から成り立つと考えることができる。それは上に述べた話し手のエートスによる証明、 P134 聞き手のパトスによる証明、そして話される物についての客観的証明である。初めの二つは広い意味ではパトスにおける証明とみられることができ、これに反して最後のものはロゴスによる証明である。したがってレトリック的思考も完全であるためには論理学的思考の要素を欠くことが出来ない。対象的なもの、客観的なものの思考は論理学的でなければならぬ。かような論理学的思考の生産物を普通いわれるように思想と呼ぶならば、思想は文学にとって何ら不必要なものではなく、むしろそのような思想の乏しさが我が国の従来の文学における欠点であった。そのために日本の文学には局部的な直感の深さや思考の細やかさはあるにしても、西欧の文学に見られるような総合、構成、外延に欠けていた。我が国の作家は思想に対してあまりに甚だしい軽蔑、反感を抱いているのがつねであった。この点においてはいわゆるプロレタリア文学がイデオロギーの重要性を力説したことには意義があったと言わねばならぬ。つぎつぎに現れる印象を何等の思考を加えないで綴り合わせることがリアリズムではない。個々の印象を概括し、統一し、普遍化し、かくして偶然的なものを除き、本質的なもの、必然的なものを引き出してくることによって、現象を展望する客観性は得られる。芸術は具象性を持たねばならぬからといって、現象を無差別に描かねばならぬのではなく、かえってそれを整理し、その間の関係を認識し、統一して再現しなければならない。そこに論理学的に思考することが必要であろう。しかしながらその場合、論理学的な思考はただそれだけ独立に進行するのではなく、つねにレトリック的思考と結びつき、むしろこのものの一要素、 P135 一側面でなければならぬ。思想はこのようにして生きた思想となり、それ自身がある直感性を得てくる。作家がイデオロギーを取り入れること、経済思想、社会思想、哲学的思想等を勉強することは必須であり、我が国の作家はもっと勤められてよいことである。それらの理論は何よりも客観の整理に役立つであろう。けれども文学が何かそのような理論の応用というごときものでありえないことは明らかである。イデオロギーは作家においてレトリック的に思考され直されなければならぬ。これは単に理論を個別化し、特殊化するというのとは別のことである。イデオロギーは自己のパトスにおいて確かめられ、性格化され、内的に必然化されなければならない。そうすることによってイデオロギーは作家の眼を養うことができ、真の思想とも真のイデオロギーともなりうるのである。